■竜門山地 奈良県平群町の国見展望台より。角度的にはほぼ宝塚お天気カメラから見れる眺望と同じ。【HD】大阪空港ライブカメラ(第2)から見える竜門山地の稜線はここをクリック
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宗泉寺まで700m、高取城址まで2.3Kmの地点です。近鉄吉野線壺阪山駅からも来れます。壺阪山駅は高松塚古墳やトラ古墳などの飛鳥の古墳巡りの拠点駅でもあります。 目指す高取城は日本では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられています。
高取山頂、高取城址まで来ました。 高取城は、南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられています。 その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となりましたが、信長の死後、 天正12年(1584年)に筒井順慶の支城網の一つとして本格的城塞へと改められ、更に 天正13年(1585年)、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となりました。 高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入りましたが、後に同じく重臣の本多利久に与えられました。 天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造しました。 本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだそうです。
立派な石垣です。 秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康につきました。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在でした。 この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めましたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させました。 俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となりました。
城跡の下には雲海が...あちらから見れば天空の城状態です。 江戸時代、俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉しました。 本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となりましたが、 寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5,000石の大名に取り立てられ新たな城主となりました。 以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となりました。
芋ヶ峠。あるいは芋峠。今峠とも。古代において都のあった飛鳥と、離宮のあった吉野とを最短で結ぶ道として開かれたそうです。 明治時代まで、人や物資が頻繁に行き交ったそうですが、1912年(大正元年)に吉野軽便鉄道(今の近鉄吉野線)が今の六田駅まで開通すると次第に衰えたとのことです。