約7000~6000年前の縄文時代前期の大阪平野は、縄文海進(海水面の上昇)によって、河内湾と呼ばれた海の底にありました。現在の上町台地は半島のように南から北に(上の想像図では右上から左下に)突き出ていました。縄文時代中期、河内湾は、海面の後退とともに、淀川や大和川などが運ぶ土砂の堆積により徐々に埋まっていきました。やがて、河内湾は大阪湾と切り離されて河内潟へ、約2000年前以降の弥生時代中期には、淡水化し河内湖となりました。その後も堆積は続き、河内湖の陸地化は進み、長い歳月をかけて沖積平野が形成されたのです。
この地には、上代には大和朝廷が遣隋使や遣唐使などの使節を送り出したり返答使の迎接を行った住吉津や難波津が置かれ、国際港として賑わいました。また仁徳天皇の時代には難波高津宮があったとされています。
大阪に最初に造営された大規模な都市は難波宮ということになるでしょう。645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成しました。ちょうど上町大地を難波堀江で切った北端、今の大阪城のやや南に当たります。その場所については諸説ありましたが、昭和30年代に山根徳太郎氏の執念の発掘調査によって、論争の決着を見たといっていいでしょう。
戦国時代初期から安土桃山時代にかけてはこの地に石山本願寺があり、寺内町の時代と言われます。近代都市大阪は、豊臣秀吉が大坂城を築くとともに、城の西一帯の低地に城下町を造り、東横堀川、天満堀川、西横堀川、阿波堀川を開削し、その土砂で宅地を造成し、道路を碁盤目状に配置したことに端を発してます。この城下町には、伏見、堺、平野郷などの古いまちから町人を移住させ、その後の商業都市大阪の基盤をつくりました。
明治以降、大阪は工業化の波に乗って急速な発展を遂げましたが、もし、その時代にも宝塚お天気カメラがあったなら、大阪の景色が一夜でガラっと変わったことが二度あります。 それは、明治18年の大洪水と、昭和20年の第二次世界大戦による大阪空襲です。明治18年の大洪水では枚方の三矢、伊加賀で堤防が決壊したのを最初に、淀川は洪水によって堤防が次々と決壊。 これにより、当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71,000戸が最大約4m浸水し、あたかも古代の河内湖が再現されたような景観となってしまいました。 この水害をきっかけに、抜本的な淀川の改修に向けた機運が急速に高まり、守口から大阪湾までの約16kmの巨大放水路「新淀川」の誕生となるわけです。 また、戦災で都市部を中心に、市域の27%にあたる50平方キロメートルが焦土と化し、その時の宝塚お天気カメラからは、再建されたばかりの大阪城天守閣と梅田近辺の焼け残った低層のビルだけがポツンポツンと見えたことでしょう。
戦後の大阪復興と、経済的な浮沈については枚挙にいとまがないわけですが、古代からほとんど変わることのない「空」と「山」に比べて、ここ大阪の「地」は、これから未来に向けても、我々の想像を遥かに超える変貌を遂げていくことでしょう。
大阪城以前のこの地には石山本願寺、難波長柄豊崎宮の宮域が存在したことになる。
6~7世紀頃の摂津、河内、和泉の景観 : 日下雅義“古代景観の復元” 中央公論社(1991) より引用